2013年11月30日

晴天、自転車で外出した(CLACLA日記)

 今日で11月も終わり。
 今年も、残すところ一月となる。
 一日一日を本当に大切にしていかなければ。
 そして、死を忘れないこと。


 晴天。
 いいお天気、いい青空の一日。

 気温は少しだけ上昇したか。
 それでも、寒さは厳しいが。
 皆さん、くれぐれも風邪にはお気をつけくださいね。


 昨夜、youtubeにアップされたバリトンのヘルマン・プライがカール・エンゲルのピアノ伴奏で歌ったレーヴェの『オイゲン公』(レコード音源から)、バリトンのブリン・ターフェルがマルコム・マルティノーのピアノ伴奏で歌ったシューマンの『二人の擲弾兵』、バリトンのトーマス・ハンプソンがヴォルフラム・リーガーの伴奏で歌ったシューベルトの『菩提樹』、フラウト・トラヴェルソのバルトルド・クイケンとクイケン・カルテットの面々が演奏したモーツァルトのフルート4重奏曲ニ長調を聴いたりしながら、4時過ぎまで仕事関係の作業を進める。


 午前中、何かの作業で外がかまびすしい。
 やれやれ。


 デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団が演奏したリヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』&『死と変容』<Arte Nova>を聴き、CDレビューをアップする。
 詳しくは、前回の記事をご参照のほど。

 ほかに、ダニエーレ・ガッティ指揮ローマ・サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団が演奏したレスピーギの交響詩ローマ三部作(『ローマの祭』、『ローマの噴水』、『ローマの松』)<CONIFER>を聴く。


 仕事関係の作業を進めたり、石田憲の『日独伊三国同盟の起源』<講談社選書メチエ>を読み進めたりする。


 16時台に外出し、自転車で東山青少年活動センターへ。
 創造活動室で、勝手にユニット BOYOCTT #01『Re:空続きの〆切』を観る。
 詳しくは、前回の記事(観劇記録)をご参照のほど。

 開演前終演後、関係各氏と話しをしたりあいさつをしたりする。

 で、終演後、夕飯用の買い物をすませて21時少し前に帰宅した。


 帰宅後、NHK・FMの『クラシックの迷宮』を聴きながら、遅めの夕飯をすませる。
 『クラシックの迷宮』は生誕百年にあたる作曲家高田三郎の特集で、高田三郎自身が東京フィルを指揮した狂詩曲第1番と第2番(1956年の録音)と山田一雄指揮東京フィル他の演奏による歌劇『蒼き狼』抜粋(1972年の初演時の録音)が放送されていた。


 夕飯後、仕事関係の作業を進めたり、『日独伊三国同盟の起源』を読み進めたり、観劇記録の準備をしたりする。


 今日は、グレインビスケット(ナッツ)を食す。
 寺町通の業務スーパーで、88円だったマレーシア原産のもの。
 ナッツ入りのさくさくとした食感のビスケットで、まあまあ美味しうございました。
 ごちそうさま!


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

迷宮と逃走 勝手にユニット BOYCOTT #01『Re:空続きの〆切』

☆勝手にユニット BOYCOTT #01『Re:空続きの〆切』

 作・演出・振付:坂口弘樹
(2013年11月30日18時開演の回/東山青少年活動センター創造活動室)


 勝手にユニット BOYCOTTにとって第一回目の本公演となる#01『Re:空続きの〆切』は、C.T.T.における集団創作の試演は置くとして、蒲団座の番外公演や学生演劇祭における公演と同様、坂口弘樹作品の主題がよく示された内容となっていた。
 迷宮と逃走、とそれはまとめることができるのではないか。
 登場人物が、「現実」とは異なるどこかに迷い込まされ、暴力的な追跡者たちから逃げ回る。
 それは、坂口君がこれまでに接してきた様々なものやことの反映であるとともに、彼にとって切実なテーマ、日々向き合っている内面のあれこれの表われと考えられるだろう。
 と、こう記すと、なんだか哲学的な難解な作品であるかのように思うむきもあるかもしれないが、さにあらず。
 一方で、坂口君お得意の身体的パフォーマンスや殺陣、脱力系の笑いを盛り込んだ、エンターテインメントを充分に意識した舞台に仕上がっていた。
 正直、冗長さを感じる部分や、逆に説明不足を感じる部分もあったりして、何を引き何を足すか、さらに全体的な精度をいかに高めていくかが今後の課題になってくるかとも思ったが、自分自身の伝えたいことをお客さんに愉しんでもらいながら伝えようとする坂口君の姿勢、志向や思考、嗜好や試行には好感を抱いた。

 作品の主軸となる小川晶弘(客演・月面クロワッサン)や河西美季をはじめ、とのいけボーイ、山中麻里絵(客演・劇団しようよ)、千葉優一ら演者陣は、細かい傷はありつつも、坂口君の作品世界をよりよく表わす努力を重ねていた。
 特にBOYCOTTの面々には、これから公演を重ねていくことで、各々の課題をクリアしつつ、さらに密度の濃いアンサンブルを築き上げていって欲しいと思う。

 そうそう、今夜の日替わりゲストは、和田謙二の髭だるマンとしゃくなげ謙治郎、それに大九寺一磨と白瀬次郎で、はっちゃけやたけて過剰ないつもの如き力技でよい具合に舞台をかき回していたことを付け加えておきたい。

 いずれにしても、勝手にユニット BOYCOTTの今後の公演に期待したい。
 まずは次回の公演が愉しみだ。
posted by figarok492na at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

我まとめるゆえに我あり ジンマン指揮の『英雄の生涯』と『死と変容』

☆リヒャルト・シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』&『死と変容』

 指揮:デヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2001年1月、2月/デジタル・セッション録音)
<Arte Nova>74321 85710 2


 我思うゆえに我あり。
 とは、おなじみデカルトの命題で、さすがは私、自己自我意識が尊ばれるヨーロッパらしい。
 と、感心してみせたが、まあ、命題は命題、理念型は理念型(byマックス・ウェーバー)、ヨーロッパの人たち全般をそうした自己自我意識の確立した人と規定してしまうのもどうかとは思うし、ましてやそれを俺が我がの我がまま勝手と解しちゃまずいだろうが。
 ただ、いわゆる芸術家となれば話は別で、俺が我が、己の表現表出欲求に長けた人々とにらんでもまず間違いはあるまい。
 中でも、ベートーヴェン以降、ロマン派の作曲家たちには、我作曲するゆえに我あり、とでも呼ぶべき自己表現と自己表出を強く感じる。
 で、ドイツの後期ロマン派を代表するリヒャルト・シュトラウスなんてその最たるもの、だって交響詩『英雄の生涯』なんて自分を英雄に見立てた私交響詩的色合いの強い作品を作曲してるんだもの!

 って、つらつらと記してみせたけど、これってどうなんすか?
 確かに、一見『英雄の生涯』は自己顕示欲の表われみたいな作品だけど、その実そんな自分をからかってみせる皮肉なまなざしだって十二分に含まれているように僕には思われてならないのだ。
 我疑うゆえに我あり。
 それに、リヒャルト・シュトラウスはオーケストラやオペラの現場をよく知った(と、言うことは演奏家や歌手たちの我がまま勝手もよく知っていた)職人なわけで、『英雄の生涯』一つとっても、ここは押してここは譲ってといった演奏者たちとのかけ引きが聴こえるような気がする。
 我さばくゆえに我あり。
 だから、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルのようなそれいけどんどん、我統べるゆえに我あり的な演奏でこの曲を聴くと、いやあ凄いねと思う反面、ちょっとげんなりしてしまうことも事実だ。
 君にはあれが見えないのか?(by榎木津礼二郎)

 ところが、デヴィッド・ジンマンと手兵チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による録音ならば無問題。
 クリアでスマート、すっきりすいすいテンポのよい演奏で、げんなりすることなく最後まで聴き終えることができる。
 と、言って無味乾燥とは正反対、作品の要所急所、構造をしっかりきっちりと押さえた演奏で、リヒャルト・シュトラウスの音の仕掛けが明示されている。
 我まとめるゆえに我あり。
 この曲に形成肉のような脂臭さを求めるむきにはお薦めできないが、リヒャルト・シュトラウス、『英雄の生涯』というタイトルだけで敬遠している方々にこそぜひともお薦めしたい一枚だ。

 カップリングの『死と変容』も、作品の結構を巧くつかまえた演奏。
 強奏部分に到る音の動き、流れが特に魅力的である。
 こちらも、大いにお薦めしたい。

 なんて、我聴くゆえに我ありだなあ。
 いや、我書くゆえに我ありかなあ。
posted by figarok492na at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする