2013年09月21日

石田太郎が亡くなった(CLACLA日記)

 晴天。
 いいお天気、いい青空が続く。

 日中はまだまだ暑い。
 そして、夕方以降の気温の差が激しい。
 皆さん、くれぐれも風邪にはお気をつけくださいね。


 俳優の石田太郎が亡くなった。69歳。
 京都市出身で、劇団雲や劇団昴に所属するなど舞台で活動したほか、テレビドラマや映画でも活躍した。
 長身で恰幅のよい体格から豪放磊落な、それでいて一筋縄でいかない人物を得意とし、シリアスからコミカルな役柄まで幅広く演じた。
 大河ドラマ『伊達政宗』での政宗(渡辺謙)の父伊達輝宗(北大路欣也)を殺す畠山義継、同じく大河ドラマ『葵・徳川三代』での大久保忠隣が特に印象に残る。
 また、低くて柔らかい声質の持ち主で、映画の吹き替えやテレビアニメの声優としても知られた。
 特に、刑事コロンボ等、劇団の先輩で物真似を得意としていた小池朝雄の持ち役を引き継いだことで有名である。
 東宝所属の俳優だった父石田茂樹同様僧侶でもあり、『いもたこなんきん』や『古畑中学生』で僧侶の役を演じていた。
 津川雅彦のグランパパプロダクション所属。
 フジテレビ系のドラマ『独身貴族』撮影中、倒れたとのこと。
 深く、深く、深く、深く黙祷。


 結局、明け方5時過ぎまで諸々作業を進める。


 午前中一度目が醒めたが、覚悟の昼寝坊。
 正午過ぎに起きる。


 エロイカ・カルテットが演奏したシューマンの弦楽4重奏曲第1番〜第3番<ハルモニアムンディ・フランス>、トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック・オーケストラが演奏したモーツァルトの交響曲第29番、第33番、第25番<ERATO>、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンが演奏したハイドンの交響曲第30番「アレルヤ」、第53番「帝国」、第69番「ラウドン」<TELDEC>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『モノは試し』の手直しを行ったりする。


 中山七里の『静おばあちゃんにおまかせ』<文藝春秋>を読み始める。


 夕方前に外出し、夕飯用の買い物をすませる。


 帰宅後、NHK・FMで、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団の定期公演の実況中継を聴く。
 ブラームスの交響曲第2番と第3番がプログラミングされていた。
 いずれも若々しくて、エネルギッシュで爽快な演奏。


 しばらく間を置いて、NHK・FMの『クラシックの迷宮』を聴き、エロイカ・カルテットが演奏したシューマンの弦楽4重奏曲第1番〜第3番を再び聴く。


 夕飯後、『静おばあちゃんにおまかせ』を読了したあと、急な用件が入りばたばたとする。
 で、なんとか一段落着いた。


 今日も甘いものは食さず。
 我慢我慢。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

帰宅が遅くなった(深夜のCLACLA)

 晴天。
 いいお天気、いい青空が続く。

 日中はまだまだ暑いが、夜になるとけっこうな涼しさ。
 特に下鴨方面では半袖シャツで肌寒さを感じたが、街の真ん中に戻るに連れてだいぶん気温が上がったよう。
 それでも、皆さんくれぐれも風邪にはお気をつけくださいね。


 昨夜、KBSラジオでナインティナインのオールナイトニッポンを聴いたりしながら、3時半近くまで仕事関係の作業を進める。


 朝早めに起きて、トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック・オーケストラが演奏したモーツァルトの交響曲第29番、第33番、第25番<ERATO>やKBS京都の『妹尾和夫のパラダイスkyoto』、ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンが演奏したハイドンの交響曲第30番「アレルヤ」、第53番「帝国」、第69番「ラウドン」<TELDEC>を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、新しい作品について考えたりする。


 西村賢太の『棺に跨がる』<文藝春秋>を読み始め、読了する。
 かつて同棲していた女性との出来事(と、書いてしまうとあまりにも陳腐か)が見事に文「藝」化されていて、ついつい読み進めてしまった。


 17時台に外出し、自転車屋で空気を入れたのち、アトリエ劇研へ。
 C.T.T. vol.106を観る。
 詳しくは、前回の記事(観劇記録)をご参照のほど。


 開演前終演後、関係各氏と話しをしたのち、諸々あって打ち上げに参加する。


 で、帰宅が、1時半頃となる。


 以上、9月20日の日記。


 今日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 04:35| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

下鴨車窓ワークショップ受講生による C.T.T. vol.106

☆C.T.T. vol.106(2013年9月試演会−2)


 106回目となるC.T.T.(2013年9月試演会−2)は、劇作家演出家・田辺剛が主宰する下鴨車窓のワークショップ受講生の二つのグループによる田辺作品の試演が行われた。

 まず、浦賀わさび、岡本こずえ、仲谷萌、中間統彦、藤田かもめ、森田深志のAグループは、『煙の塔』をもとにした『断章 煙の塔』を試演。
 参考までに、名古屋の七ツ寺共同スタジオが発行している七ツ寺通信に掲載された『煙の塔』初演時の劇評を全開アップしたので、詳しくはそちらをご参照いただきたいが、原作を30分ほどに抜粋し、さらにほぼ素の状態の舞台で上演したことで、舞台上でいくつかのエピソードが同時多発的に進行するという作品の結構、手法的な狙いが一層明確に示されているように感じられて、非常に興味深かった。
 また、合評会で指摘されていたような演者の技術技量の問題とは別に、演劇的経験に何日もの長があるからこそかえって、藤田さんや岡本さんは、田辺さんの作品・演出と自己の特性魅力やこれまで培ってきた諸々とのすり合わせのあり様、葛藤、内にためた強い表現意欲が垣間見えていたように思う。
 ただしその分、田辺さんのテキストに潜んだ邪劇性、滑稽さの一端が表われていたことも事実だ。

 続く、キタノ万里と西村麻生のBグループは、『不動産を相続する姉妹』による『不動産を相続する姉妹 −帰った客ver』を試演。
 初演以降、5つの異なる組み合わせで接してきた『不動産を相続する姉妹』だけれど、「帰った客ver」とあるように、今回は本来登場すべき執行官が「帰ったあと」という具合に手が加えられていた。
 完成度という点では当然課題が残るものの、キタノさんと西村さんのやり取りもあって、笑劇性も強調された仕上がりになっていたのではないか。
 ここ最近抑制された感の強かったキタノさんは、努力クラブの旗揚げ公演『魂のようなラクダの背中に乗って』でのヒロインぶりを彷彿とされるような、振幅の大きい感情表現を披歴。
 一方、西村さんには一見常人、しかし実は変人といったおかしさを感じた。

 いずれにしても、田辺さんの今後の表現活動の展開とともに、受講生の皆さんのさらなる活躍を愉しみにしたい。
posted by figarok492na at 04:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

参考 下鴨車窓『煙の塔』劇評(七ツ寺通信掲載)

 C.T.T. vol.106で上演された『断章 煙の塔』(田辺剛作・演出)の参考として、名古屋の七ツ寺共同スタジオ発行の七ツ寺通信に掲載された『煙の塔』(初演時)の劇評をアップします。


☆劇評 下鴨車窓「煙の塔」

 一言で言えば、意欲作ということになるだろうか。
 下鴨車窓にとって十回目の公演となる『煙の塔』は、表現者田辺剛の今がよく表われた作品となっていたように思う。

 山の奥に塔が立つある村で、村長の姪と青年との婚礼が執り行われようとしている。
そんな折も折、塔の辺りから謎めいた音が聞こえ始める。

 という幕開けも印象的な『煙の塔』は、寓話的な手法によって現在のアトモスフェアを映し取ろうとする、田辺さんの創作姿勢が明確に示された作品である。
 中でも、超然と聳え立ち、代々村長の一族によって護られ続けてきた謎の塔は、我々が直面している諸問題の象徴であるとともに、それを支え続けてきた社会的土壌、社会的心性の象徴であると言っても過言ではないだろう。
 ここで重要なことは、田辺さんが多様な解釈と相対的な価値判断を、観る側に委ねようとしていることだ。
 劇中語られる、「三角(三つの点)が世界の安定を保っている」という趣旨の言葉なども、そうした田辺さんの志向をよく伝えているのではないか。
 この多面性こそ、『煙の塔』とサタイア(風刺)とを分ける大きな分岐点となっているとも、僕は考える。

 加えて、小さな共同体における悪意の発生や、抑制されたエロティシズムといった、これまでの一連の作品と通底するモティーフが、チェーホフら先達たちの作品や様々な演劇的技法を咀嚼吸収する形で描き込まれていた点も忘れてはなるまい。
 特に指摘しておかなければならないのが、田辺さんの師である松田正隆との関係だ。
 田辺さんが演出助手として参加した、マレビトの会の『HIROSHIMA―HAPCHEON 二つの都市をめぐる展覧会』(松田正隆演出)での経験が、劇場全体を演劇空間に変えて、同時多発的に演者が演技を行うという、いわゆる展覧会形式を用いた前回公演の『小町風伝』(あいにく未見)に結実したわけだけれど、今回はその手法を一般的な舞台の上にスライドさせることで、時系列の省略や登場人物間の心理的な距離を具体的な像として映し出すことに成功していた。

 一方で、上演時間の制約もあってだろうが、十一名という登場人物の存在感に密度の薄さ、書き込まれるべきことが書き詰められていないもどかしさを覚えたことも、残念ながら否定できない。
 また、これは田辺作品の魅力でもあるのだが、本来叙事詩として綴り終えられるべきものが、結局叙情的に収斂されてしまっているような感じがしたことも事実である。
(その意味で、村長の姪を演じた飯坂美鶴妃の幕切れでのドライなリリシズムと粘らない点描的なエロキューションは、『煙の塔』を陳腐なカタルシスから救い出していたように思う)

 さらに踏み込んで言うならば、下鴨車窓における田辺さんは、松田さんの存在を意識し過ぎているように感じられて、僕には仕方がないのである。
 田辺さんが松田さんを超えていこうとするのであれば、『煙の塔』でもその一端が示された、優れたユーモア感覚(松田さんの作品にはそれが乏しい。グロテスクですらある諧謔性には魅かれるものの)を、演出の面で一層重視していくことが必要なのではないだろうか。
 現実を直視してなお時事諷刺に偏らない寓話性、過度に陥らない叙情性、奇抜さに恃まない試行性、笑いのツボを押さえて外さない喜劇性。
 田辺さんは、その全てがバランスよく混在した、精緻で巧妙な作品を造り出し得るに足る高い才能の持ち主であると、僕は信じる。
 この国の今に相応しい喜悲劇の傑作の誕生を、強く心待ちにしたい。

 最後に、高杉征司、岩田由紀、藤本隆志ら好演の演者陣と、光と影を巧みに利用して作品の世界観を汲み取って余すところなかった魚森理恵の照明と川上明子の舞台美術に、大きな拍手を贈りたい。
posted by figarok492na at 03:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする