2012年05月27日

吉田秀和を悼み、立川志の輔独演会を愉しんだ(CLACLA日記)

 晴天。
 いいお天気、いい青空が続く。

 気温が上昇し、暑さを強く感じた一日。
 暑い暑い。


 音楽評論家の吉田秀和が亡くなった。98歳。
 音楽評論を中心とした文筆活動とともに、子供のための音楽教室の初代室長を務めたり、水戸芸術館館長として運営に関わったりするなど、多方面で活躍した。
 また、NHK・FMの『名曲のたのしみ』でも、長年解説の任にあたった。
(そういえば、昨日の夜も、『名曲のたのしみ』の終わりのほうを聴いたんだった)
 日本を代表する音楽評論家と言っても過言ではなく、音楽評論のジャンルでのその影響は、やはり計り知れない。
 僕自身も、中学高校時代と、吉田さんの『世界の指揮者』<新潮文庫版>や『音楽 展望と批評』<朝日文庫。三分冊>を表紙が擦り切れるほど読み返したものだ。
 深く、深く、深く、深く、深く黙祷。

 今年の初めに亡くなった林光さんが、吉田さんについて次のように記している。
(若き日の林光さんは吉田秀和と度々演奏会や音楽について親しく語り合う機会を得ていたという)
>吉田さんと、音楽について、とくについさっき聴いてきたばかりの曲や演奏のあれこれについてしゃべりあうのは、私にとって単純にたのしかった、というのが正直なところだ。
(中略)いま思えば、吉田さんのそういったおしゃべりのうまさと、吉田さんの音楽批評とは、一本の糸でつながっている。それは、この国の音楽批評家のなかでは、ほんとうに独特なことで、吉田さんの判断、つまりモノサシの目盛りには、ずいぶんと疑問をいだくときもあるようになった、二十何年後のこんにちでも、音楽を聴いたすぐあとで、それについて、勝手放題たのしいおしゃべりをしてみたいなと思う相手が、演奏家や同業の作曲家なら、指折り数えて思いうかぶが、批評家となると、さて吉田さんのほかにだれがいるだろう<
林光さん『私の戦後音楽史』<平凡社ライブラリー>の9「毎日ホールの日々」より。


 昨夜、4時過ぎまで仕事関係の作業を進める。


 朝早くから、真向かいのマンションがかまびすしい。
 腹立たしいかぎり。
 ええかげんにせいよ、このあほんだら!!


 NHK・FMの『名演奏ライブラリー』で、イギリスのピアニスト、ジョン・オグドンの演奏を聴きながら、仕事関係の作業を進めたり、川上弘美の『天頂より少し下って』<小学館>を読み進めたりする。


 正午過ぎに外出し、阪急で梅田まで出、そこから環状線で森ノ宮へ。
 旧知の松田裕一郎さんからのご招待で、森ノ宮ピロティホールにて、立川志の輔独演会を愉しむ。
 ここのところテレビもないものだから、久しく立川志の輔の姿に接していなかったが、めっきり頭も白くなり、声も一層渋辛くなり(まるで斎藤晴彦みたい)、大師匠の風格がぐぐんと増したように思う。
 チラシには、『中村仲蔵』のみが演目として上がっていたが、それだけではなんだということで、休憩前に『ハナコ』という題名の新作落語が演じられる。
 くどいほどの言葉の布石がラストできっちり活きてくるとてもくすぐりの多い噺で、実に面白かった。
 で、メインの『中村仲蔵』は初代中村仲蔵の舞台上での成功を描いた噺だが、みっちり語り込んで、と言うより、たっぷり造り込んで仕立て直したと評したくなるような約1時間半の長講となる。
 松田さんも話していたが、先代の正蔵(彦六)や円生の口演に慣れ親しんだ人間としては、へえここまで語り込むんだという驚きもあったが、やはりこの長尺を持ち応える立川志の輔という落語家、芸の人の力量には改めて強く感心もした。
(松田さんによると、志の輔さんばかりでなく立川談春もこうした造り込み仕立て直しをよくやっているらしい)
 立川志の輔の実演に接するのは、かれこれ15年近くぶりになるが、こうやってたっぷり彼の落語を愉しむ機会を与えてくれた松田さんには、心より感謝するばかりだ。

 その後、玉造駅近くのごえんやという店に入って、美味しい料理を味わいながら、松田さんと話しをする。
 落語についてや、昨夜松田さんも観たという第15次笑の内閣『ツレがウヨになりまして。』をはじめお芝居のこと、最近のCLACLA日記の観劇記録の甘さなど、あれこれ意見交換ができて、本当に愉しかった。

 阪急で河原町へ向かい、松田さんと別れたあと、タワーレコードやブックオフをのぞき、21時半頃帰宅した。


 帰宅後、仕事関係の作業を進めたり、『天頂より少し下って』を読み進めたりする。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
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外出後の日記(深夜のCLACLA)

 11時40分に外出し、自転車で京都大学吉田寮食堂へ。
 第15次笑の内閣『ツレがウヨになりまして。』(高間響さん作・演出)を観る。
 詳しくは、前々回の記事(観劇記録)をご参照のほど。

 開演前終演後、関係各氏と話しをしたり、あいさつをしたりする。


 終演後、河原町まで戻り、三条京阪のブックオフやAvis、ホットラインをのぞいたり、京都市役所前で『ツレがウヨになりまして。』の観劇記録の下書きを書いたりする。

 そうそう、寺町通で演劇関係の親しい知り合いに遭遇したんだけど、やっぱり自分は「ばったり」率が高いなあと痛感した。


 その後、ちょっとした買い物をすませたりして、アトリエ劇研へ。
(そういえば、途中自転車の田辺剛さんにも遭遇したんだった。「ばったり」率!)
 劇団飛び道具の『七刑人』(大内卓さん脚本・演出)を観る。
 詳しくは、前回の記事(観劇記録)をご参照のほど。

 開演前終演後、関係各氏と話しをしたり、あいさつをしたりする。


 終演後、夕飯用の買い物をすませて、21時40分過ぎに帰宅した。


 遅めの夕飯後、NHKラジオ第1のワクテカラジオを聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、川上弘美の『天頂より少し下って』<小学館>を読み始めたりする。


 今日は、オイシスのティラミスケーキを食す。
 なかなか美味しうございました。
 ごちそうさま!


 以上、5月26日の外出後の日記。


 今日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

劇団飛び道具『七刑人』

☆劇団飛び道具『七刑人』

 脚本・演出:大内卓
 レオニード・アンドレーエフ『七死刑囚物語』より
(2012年5月26日、アトリエ劇研)


 劇団飛び道具の公演を観るのは、確か京都府立文化芸術会館での『きょうりゅう狩り』以来だから、かれこれ10年近くぶりになるか。
 継続は力なりなんて言葉を使えば安易に過ぎるかもしれないが、作品そのものにしても演者陣の演技にしても、やはりこれまでの積み重ね、長い経験が如実に示された内容となっていたように僕には感じられた。

 『七刑人』は、アンドレーエフの『七死刑囚物語』を下敷きにした作品だが、20年以上前に読んだ微かな記憶(確か、ユーゴーの『死刑囚最後の日』も同時期に読んだはずだ)をたどって考えるに、原作の筋立てが巧く活かされているように思う。
 帝政ロシア末期、ある大臣の暗殺を企てたことで絞首刑を宣告された5人の男女と、主殺しや強盗殺人でこれまた絞首刑を宣告された2人の男という、7人の死刑囚の死刑執行までの時間を丁寧に描いた作品だけれど、政治的なテロリズムの問題や死刑制度がどうこうというよりも、さらに普遍的な死そのものや生そのもののあり様が深く問われていたのではないだろうか。
 前半から中盤にかけての監獄内での場面では、舞台上の登場人物同様、観るこちら側も出口のない場所に閉じ込められたかのような窮屈さを覚えたが、それが、後半場面が変わって、本来ならば死が迫り来ているのにもかかわらず、何かがすっと開いたというか、強い解放感を感じたことがまずもって印象に残った。
 そして、極限の状態に置かれるからこそ焙り出される、人間の滑稽さ「おかかなしさ」も強く印象に残った。
 劇団飛び道具の面々に加え客演陣も、ライヴ特有の傷はありつつも、これまでの経験に裏打ちされた厚みのある演技を披歴していた。
 役柄との取り組み方に加え、一人一人の人間性や死生観も垣間見えたように感じられた点も、個人的には興味深かった。
 また、照明や音響も作品の世界観によく沿っていたと思う。

 いずれにしても、観応えのある作品であり公演だった。
 次回の公演をぜひとも愉しみにしたい。
posted by figarok492na at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第15次笑の内閣『ツレがウヨになりまして。』

☆第15次笑の内閣『ツレがウヨになりまして。』

 作・演出:高間響
 アフタートークゲスト:鈴木邦男
(2012年5月26日、京都大学吉田寮食堂)


 血が騒いだ。
 と、言っても客入れでかかっていた軍歌にではない。
(いや、たぶん春日八郎や鶴田浩二だろうその歌声には、ちょっとばかり血は騒いだが…)
 第15次笑の内閣『ツレがウヨになりまして。』というお芝居そのものに血が騒いだのだ。
 28日まで公演中ということだけではなく、詳しい内容についてはあえて絶対記さないが、『ツレがウヨになりまして。』は、昨年世情を賑わせた某俳優夫妻の騒動を大きな材料に、いわゆる「ネトウヨ」の問題、さらには国を愛することに人を愛することなどなどについて、高間響の想いのたけが盛り込まれた作品で、そうしたあれこれに関し、日頃いろいろと考えていた人間にとっては、うんそうだと内心大きく頷いたり、おおそうきたかと感心したりと血が騒ぎ、心強く動く内容となっていたのである。
 むろん、そこは笑の大学、ならぬ笑の内閣を標榜するだけあって、きっちりコメディのスタイルが守られていたことも事実であり、硬軟取り揃えたくすぐり仕掛けのオンパレードには大いに笑わされた。
 確かに、脚本、演技ともに粗さを指摘することは簡単だし(ただ、かつて「演劇は政治だ」と断言した鈴江俊郎だって、ここぞというときにかぎってかんだりしていたが…)、笑の内閣がさらなるステップアップを遂げるためには、やはり精度を如何に高めていくかが大きな課題となるだろうとも考えるが、そこばかりに気が行って、角を矯めて牛を殺す、じゃない、角を立てて全く笑わぬ客になってしまうのは、非常にもったいないとも思う。
(いや、実は全く笑わなくったっていいんだけれど、どうして笑えないかの本当の理由について自覚しておく必要はあるんじゃないかとは思う)

 演者陣はライヴ特有の傷はありつつも、各々の役柄に合った演技を行っていたのではないか。
 個人的には、脇の位置にある焼酎ステラの細かい演技が印象に残ったことを記しておきたい。

 そして、忘れてならないのが、鈴木邦男を迎えてのアフタートーク。
 これはもう、滋味豊麗圧巻の二語だった。
 これまたあえて詳細については記さないが、様々な経験に裏打ちされた言葉は、思想信条の枠を超えて首肯するところ多く、特にその組織に対する感慨は左翼活動の経験者としては、反省するところ大だった。

 いずれにしても、観て置いて正解の公演。
 ああ、面白かった!


 あっ、あと片山杜秀だったら、この『ツレがウヨになりまして。』をどう観るんだろう。
 ちょっと気になるところだ。
posted by figarok492na at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする