どんよりとした感じのするお天気の一日。
夕方には、少し雨も降った。
気温もそれなりに上昇し、あまり快ならず。
昨夜、奥田英朗の『純平、考え直せ』<光文社>を読了し、堀江敏幸の『おぱらばん』<青土社>を読み始める。
トーマス・ヘンゲルブロック指揮ハンブルクNDR交響楽団が演奏したメンデルスゾーンの交響曲第1番&シューマンの交響曲第4番他<SONY>を聴きながら、リハビリのためのトレーニングをこなしたり、仕事関係や企画関係の作業を進めたりする。
ほかに、鈴木淳史の『クラシック名盤ほめ殺し』<洋泉社新書y>の拾い読みもする。
13時少し前に外出し、京都府立文化芸術会館へ。
で、グループAKT.T+ぐるっぽ・ちょいすプロデュース『K・リア 〜ヒメミコタチノオハナシ〜』(シェイクスピア作、青柳敦子さん翻案・演出)を観る。
詳しくは、前回の記事(観劇記録)をご参照のほど。
開演前終演後、青柳さんやアフタートークに出演していた田辺剛さんをはじめ、出演者等関係各氏と話しをしたり、あいさつをしたりする。
(打ち上げにも誘っていただいたが、片づけなければいけないことが山積していて退散してしまう。残念だけれど、仕方がない)
20時少し前に帰宅した。
夕飯後、ヘンゲルブロックのCDを繰り返し聴きながら、仕事関係の作業を進める。
今日は、阪神製菓のふわどらを食す。
グルメシティで、税込み68円に値引きになっていたもの。
塩バター風味のクリームが入った粒あんのどら焼きで、なかなか美味しうございました。
ごちそうさま!
明日がいい日でありますように!
それじゃあ、おやすみなさい。
2011年09月18日
グループAKT.T+ぐるっぽ・ちょいすプロデュース『K・リア 〜ヒメミコタチノオハナシ〜』
昨年のシェイクスピアコンペで見事優秀賞を受賞した、グループAKT.T+ぐるっぽ・ちょいすプロデュースによる『K・リア 〜ヒメミコタチノオハナシ〜』(シェイクスピア作、小田島雄志訳、青柳敦子さん翻案・演出)を観に、京都府立文化芸術会館まで行って来た。
おなじみの道化が姿を消し、その代わり(ではないだろうが)何人かの役者がリア王を交代で演じるという設定はありつつも、過激にテキストを解体し、新たな何かをこねくり出すというやり方とは全く異なり、『リア王』の基礎となるものを充分に把握しながら、そこに細かな仕掛けを加えていくことで、この作品の持つ様々な問題点や思考のきっかけをきっちりと提示した内容となっていたのではないだろうか。
(そこには、公演の案内などに書かれていたような、リア王の娘たちの側からの視点も当然含まれている)
府立文化芸術会館のキャパシティとの兼ね合いもあって、若干密度の薄さを感じる部分もなくはなかったが、リア王という怪物的人物像(どうしても、『リア王』を下敷きにした黒澤明の『乱』の仲代達矢の狂いっぷりを思い出してしまう)に惑溺することなく、一人一人の登場人物を等身大で、なおかつ適度な距離を置いて描いてみせた構成と演出の手法に、個人的には好感を持った。
(単に上演時間の短縮という物理的な問題だけからではなく、そういった意味からも、「見通しのよい『リア王』、と僕は評したくなる)
役者陣は、ライヴ特有の傷はありつつも、個人としてもアンサンブルとしても一定以上の高い水準の演技を披歴していたのではないか。
詠嘆調ではない淡々とした台詞づかいでありながら、それが音楽のような流れのものとして耳に入ってきていた点も、強く印象に残った。
また、京都勢を中心としたアンサンブルも、限られた時間の中で、青柳さんのコンセプトによく沿った動きを行っていたと思う。
残念だったのは、あともう少しお客さんが多かったらなあ、ということ。
せっかくの機会だっただけに、ちょっともったいない。
おなじみの道化が姿を消し、その代わり(ではないだろうが)何人かの役者がリア王を交代で演じるという設定はありつつも、過激にテキストを解体し、新たな何かをこねくり出すというやり方とは全く異なり、『リア王』の基礎となるものを充分に把握しながら、そこに細かな仕掛けを加えていくことで、この作品の持つ様々な問題点や思考のきっかけをきっちりと提示した内容となっていたのではないだろうか。
(そこには、公演の案内などに書かれていたような、リア王の娘たちの側からの視点も当然含まれている)
府立文化芸術会館のキャパシティとの兼ね合いもあって、若干密度の薄さを感じる部分もなくはなかったが、リア王という怪物的人物像(どうしても、『リア王』を下敷きにした黒澤明の『乱』の仲代達矢の狂いっぷりを思い出してしまう)に惑溺することなく、一人一人の登場人物を等身大で、なおかつ適度な距離を置いて描いてみせた構成と演出の手法に、個人的には好感を持った。
(単に上演時間の短縮という物理的な問題だけからではなく、そういった意味からも、「見通しのよい『リア王』、と僕は評したくなる)
役者陣は、ライヴ特有の傷はありつつも、個人としてもアンサンブルとしても一定以上の高い水準の演技を披歴していたのではないか。
詠嘆調ではない淡々とした台詞づかいでありながら、それが音楽のような流れのものとして耳に入ってきていた点も、強く印象に残った。
また、京都勢を中心としたアンサンブルも、限られた時間の中で、青柳さんのコンセプトによく沿った動きを行っていたと思う。
残念だったのは、あともう少しお客さんが多かったらなあ、ということ。
せっかくの機会だっただけに、ちょっともったいない。